長崎教会群:紐差教会 Nagasaki group church:Himosashi church
「(十字架称賛)紐差カトリック教会」
・紐差(ひもさし)の再布教は、明治2年(1869年)ジラル神父に始まり、明治6年禁教解除後ペルー神父が着任、明治7年(1874年)住民の多くがカトリックに改宗、外海のド・ロ神父の外海からも移住した。マタラ神父の功績も大きい。
・旧紐差教会堂は、明治20年頃に木造の教会が建てられた。
・旧教会堂は旧馬渡島教会に転用、さらに呼子教会に転用。
・完成は昭和4年(1929年)、当時珍しい鉄筋コンクリート造り東洋屈指の規模だった。
・鉄川与助が建てた鉄筋コンクリート造り教会では、熊本の手取教会に次いで2番目。
・原爆で浦上天主堂が崩壊し再建されるまで、日本最大の天主堂だった。
鉄筋コンクリート造り2階建
・三廊式内部、円柱にコリント風柱頭飾、板張り舟底・額縁付き平板張・折上天井。
設計・施工:鉄川与助
長崎県平戸市紐差町1039
電話 0950-28-0168
Music : Brother Sun Sister Moon Donovan
(cross praise) Himosashi Catholic Church
・Re-propagation of the Himosashi started from father Geral in 1869, arrived at one's post by father Peru after having released in 1873, converted to Catholicism by many of residents in 1874, and migrated from the Sotome of father Do'Ro in the Sotome. Father Matara's distinguished services are also large.
・Church made out of trees were built as for the old Himosashi Church in 1887.
・The catholicism church is diverted to the old Mawatarishima church.
・1929 and at that time, completion was a scale of the unusual ferroconcrete making eminent Orient.
・In the ferroconcrete making church that built Tetsukawa Yosuke, it is the second after the Tetori Church in Kumamoto.
・It was the maximum cathedral in Japan until the Urakami cathedral's collapsing in the atomic bomb and being rebuilt.
Making ferroconcrete
Design and construction: Tetsukawa Yosuke
★紐差カトリック教会
「鉄川スタイル完成型・紐差教会」(長崎新聞2008年8月29日(金)付『うず潮』鉄川進「鉄川与助のこと5」より転載)
出身地である五島列島での教会堂建設を皮切りに、鉄川与助は長崎県本土から遠くは宮崎までの九州一円へとその工事範囲を拡大していった。請負制ではないものもあり数字は確定しにくいが、大戦前に二十八棟の教会堂を設計施工しており、そのうち十七棟が現存し、重要文化財指定も国四棟、県四棟を数えている。
昭和期に入ると学校や宿舎などの建築の比率が高くなっていったようである。しかし戦時中は企業整備令によって、会社合併を強制されて鉄川組はいったん姿を消す。
戦後、帰崎した私の父を代表者に一九四九年、鉄川工務店として再び分離独立することになる。与助はすでに七十歳、父与四郎から家督を継いだのが与助二十七歳、与四郎四十七歳だったことを考えれば、事業を引き継ぐ時期として早い時期ではない。したがって与助個人の作品と呼べるのは戦前のものまでといえるだろう。
私にとっての与助のイメージは、黒のスリーピースにかたいカラーをつけ、懐中時計の銀鎖をたらして帽子をかぶった姿だった。私が知っている彼はすでに仕事を引退していた時期だったのだが、この姿で父が経営していた会社の工事現場を回っていた。会社に行くことはあまりなかったようだから、やはり現場にいることが楽しかったのだろう。
私も含め晩年の与助を知る人は、彼のやさしさや気配りを印象として口にする。遊びに行って出してもらった、年代もののパーコレータでいれたコーヒーが私にとっての祖父の味だった。
最後に与助の代表作を考えたい。文化財的な価値は別として、鉄川スタイルの完成型と苦労して会得した鉄筋コンクリート技術ということを考えると、私は紐差教会(平戸市)あたりを挙げるのが妥当ではないかと思っている。このことを祖父に尋ねることができなかったのが残念である。(1級建築士・長崎市)
殉教「生月・山田カトリック教会」Ikitsuki : Yamada Catholic Church
『ペトロ岐部と187殉教者』列福を祝して
the martyrdom of the Peter Kibe Kasui, and 187 companions - priests, religious and lay people the beatification is congratulated.
福者・ガスパル 西 玄可 (Blest : Gaspar Nishi Genka)
福者・ウルスラ 西 トイ (Blest : Ursula Nishi Toi)
福者・ヨハネ 西 又市 (Blest : John Nishi Mataichi)
Music : Inochi Taiko Max's latest song
ビデオ撮影:平戸市生月町山田免。2008年10月15日
Video shooting: Ikitsuki-cho Yamada-men, Hirado City. October 15, 2008.
しまに息づく かくれキリシタンの歴史
「島の館」は「平戸オランダ商館」から車で20分です。
かくれキリシタン根獅子 Peaceful hometown Neshiko
Hiding Christian was decapitated on Neshiko beach 400 years ago.
Maria who keeps praying for Kirishitan.
Woods of Ushiwaki(Orokunin sama) in which decapitated Kirishitan is buried.
It introduced the history and the sightseeing spot of the
Neshiko town, Hirado City, Nagasaki, Japan, 2007.
Music : 「ふるさと」岩田 拓靖 The Hometown Hiroyasu IWATA
平戸市教委は2008年9月11日、キリシタンの殉教関連の遺構「ウシワキの森」で、人骨がほぼ完全な状態で見つかった、と発表した。埋葬された状況などから、弾圧時代の16世紀末から17世紀初めに埋葬された信者だった可能性が大きいとみている。
市教委によると、ウシワキの森は、同市大石脇町にある小規模な林。弾圧時代に約1000人の村人をかばって処刑された一家6人がこの場所に埋葬されたという言い伝えが残っているという。
8月に行った試掘調査で人為的に石が並べられた3か所を確認。うち1か所(約1・5メートル四方)を今月8日から、さらに掘り下げた結果、身長1メートル30前後のほぼ全身分の人骨が、体を伸ばしたような状態で見つかった。
市教委は〈1〉弾圧時代に信者を埋葬した伝承がある〈2〉埋葬された状態が、仏教形式に見られるように体が曲がっていない――ことなどから、信者との見方を強めている。頭部付近には、くぎの様な金属片もあったことから、ひつぎは木製だった可能性があるという。
13日に人骨を取り上げて男女の区別などについて学識者に調査を依頼する予定。
発掘現場を見た活水女子大の下川達弥教授(考古学)は「キリシタン墓地の発掘で完全な人骨が発見されたのは例がなく、大変貴重な発見」と話している。(2008年9月12日 読売新聞)
うぐるりや(Ugururiya) -生月山田集落の歌オラショー
2015/11/01 平戸市生月町開発総合センター大ホールにて収録
Hidden Christians' sung Orasho(Gosho) in Yamada area, Ikitsuki, Hirado, Nagasaki, Japan
Orginal Gregorian Chant is O Gloriosa Domina
「ガスパル西と井上奉行」かくれキリシタンと平戸藩士
福者・ガスパル 西 玄可 (Blest : Gaspar Nishi Genka)
ガスパル西玄可は1556年、平戸の生月島生れ。父は平戸藩・籠手田家の家臣で、生月島の総奉行を務めていた。2歳のときガスパル・ヴィレラ神父から父と一緒に洗礼を受けた。
ガスパル西は籠手田家が大村に退去したあと、職を解かれ生月の伝道師になった。藩主の命に背いて信仰を棄てず、信者たちの信仰を支え、洗礼を授けていたというかどで処刑された。
ガスパル西は十字架での処刑を願ったが、1609年11月14日、友人であった井上奉行に斬首され53歳で殉教した。
The Gaspar Nishi Genka is birth in an Hirado Ikitsuki island, 1556.
The father was Hirado Domain Koteda family vassals, and it served as a total magistrate on the Ikitsuki island.
It was baptized from Father Gaspar Vilela at two years old it with father.
The Gaspar Nishi was relieved the employment after Koteda family evacuated it to Omura, and became a preacher in Ikitsuki.
The feudal lord's instruction is disobeyed and the belief is not thrown away, it was executed due to the crime of supporting the believers' beliefs, and having given the baptism.
The Gaspal Nishi wished execution with the cross, was decapitated by the magistrate who was the friend on November 14, 1609, and died a martyr at the age of 53.
ビデオ撮影:平戸市生月町山田免。2014年1月2日
Video shooting : Ikitsuki-cho Yamada-men Hirado City. Janyuary 2, 2014.
「井上氏墓地」 生月町指定史跡(昭和46年) 生月町教育委員会(平成3年)
平戸藩主は、山田氏の跡を継いだ籠手田氏が失脚して生月を離れると、井上左馬允頼煕(さまのすけ よりひろ)の子、右馬允信頼(うまのすけ のぶより/宗円)を生月の奉行とし、二百石を与えた。
その子・甚左衛門(宗休)は、藩主の信任が厚かったが、ざん訴(讒訴)にあい討ち果され、その弟・八郎兵衛が奉行となり名も右馬允信貞(うまのすけ のぶさだ)とあらためた。
彼は慶長十四年(1609)、平戸藩の命によりガスパル西の処刑にあたることになった。ガスパルと親交のあった右馬允は、再三ガスパルに棄教をすすめたが、ガスパルの殉教への思いを断ち切ることはできなかった。処刑の執行後、キリシタンの習慣に従って埋葬した。
彼はその後も生月のキリシタン取締まりにあたった。寛永三年(1626)川尻氏が郡代となり彼は平戸に移住し、寛永十九年(1642)隠居を許され、承応三年(1654)平戸に没した。
この墓は、頼煕、信頼の墓所である。ちなみに信貞の墓は、彼の遺言により生月のよく見える平戸の大辻に建てられたという。
生月「ガスパル様殉教地」Gaspar sama martyrdom ground
『ペトロ岐部と187殉教者』列福を祝して
the martyrdom of the Peter Kibe Kasui, and 187 companions - priests, religious and lay people the beatification is congratulated.
福者・ガスパル 西 玄可 (Blest : Gaspar Nishi Genka)
福者・ウルスラ 西 トイ (Blest : Ursula Nishi Toi)
福者・ヨハネ 西 又市 (Blest : John Nishi Mataichi)
ガスパル西玄可は1556年、平戸の生月島生れ。父は平戸藩・籠手田家の家臣で、生月島の総奉行を務めていた。2歳のときガスパル・ヴィレラ神父から父と一緒に洗礼を受けた。
ガスパル西は籠手田家が大村に退去したあと、職を解かれ生月の伝道師になった。藩主の命に背いて信仰を棄てず、信者たちの信仰を支え、洗礼を授けていたというかどで処刑された。
ガスパル西は十字架での処刑を願ったが、1609年11月14日、友人であった奉行に斬首され53歳で殉教した。
The Gaspar Nishi Genka is birth in an Hirado Ikitsuki island, 1556.
The father was Hirado Domain Koteda family vassals, and it served as a total magistrate on the Ikitsuki island.
It was baptized from Father Gaspar Vilela at two years old it with father.
The Gaspar Nishi was relieved the employment after Koteda family evacuated it to Omura, and became a preacher in Ikitsuki.
The feudal lord's instruction is disobeyed and the belief is not thrown away, it was executed due to the crime of supporting the believers' beliefs, and having given the baptism.
The Gaspal Nishi wished execution with the cross, was decapitated by the magistrate who was the friend on November 14, 1609, and died a martyr at the age of 53.
長男のヨハネ又市は、母ウルスラとともに殉教を遂げた。
Eldest son's John Mataichi, was died a martyr with mother Ursula.
次男のトマス西神父は、長崎・西坂の丘で穴吊りの刑で殉教した。1634年、44歳だった。1987年、トマス西は聖人に列聖された。
Second son's Father Thomas Nishi died a martyr by the punishment of the hole hanging in Nagasaki Nishizaka's hills. It was 44 years old, 1634. The Thomas Nishi is canonization in the saint in 1987.
三男のミカエル加左衛門は、兄・トマス西に宿を提供したかどにより、妻・幼児とともに処刑された。
Third son's Michael Kazaemon, was executed with the wife and infant, due to the crime that offered the hotel to the elder brother Thomas Nishi.
一人娘マリアは町奉行の息子と結婚していた。しかし、信仰を棄てさせようと責めたてられても信仰を守り通した。
Only daughter Maria was married to the son of the magistrate of the town. However, the belief was defended even if criticized to have the belief thrown away and it passed it.
ガスパル西と妻ウルスラは、家族全員を信仰によって導き育て、神に捧げたのである。
The Gaspar Nishi and wife Ursula led by the belief, brought up the entire family, and dedicated it to the god.
Music : 'Jesus Christ Superstar' (1973) Could We Start Again Please?
ビデオ撮影:平戸市生月町山田免。2008年10月15日
Video shooting : Ikitsuki-cho Yamada-men Hirado City. October 15, 2008.
しまに息づく かくれキリシタンの歴史
「島の館」は「平戸オランダ商館」から車で20分です。
国内観光Ngày Thứ 1(Hirado, ikitsuki)
平戸市、生月島(hirado,ikitsuki)
4/4 生月かくれキリシタン「おらしょ★聖歌」Ikitsuki hiding kirishitan'Oratio&Hymn'
生月町博物館・島の館:長崎県平戸市
Ikitsuki-cho museum Shimanoyakata : Hirado City Nagasaki Pref.
4/4 かくれキリシタン「ごしょう(おらしょ)聖歌」
Hiding kirishitan 'Gosyo(oratio)& Hymn'
出演:萩本氏、大石氏、川崎氏、土肥氏、大川氏(生月町壱部浦)
Appearance: Mr.Hagimoto, Mr. Oishi, Mr.Kawasaki, Mr.Doi, Mr. Okawa [Ikitsuki-cho Ichibu-bay]
解説:中園成生
Explanation: Shigeo Nakazono
「島の館」は「平戸オランダ商館」から車で20分です。
大籠殉教記念クルス館 Okago martyrdom Memorial cross Museum
藤沢町文化振興協会
〒029-3522 岩手県一関市藤沢町大籠字右名沢28-7
28-7 Unazawa Okago Fujisawa-cho,Ichinoseki City,Iwate-Ken. JAPAN
Phone/Fax 0191-62-2255 okago@agate.plala.or.jp
Japan DVD
Japan DVD
Japan Highlights
Tokyo
Kamakura
Hakone
Kyoto
Hiroshima
Nagasaki
Hirado
Bonus Japanese Videos
Japanese Art
Japanese National Anthem
China Highlights
Russia Highlights
Portfolio
JPG Photos
Google Earth Files
生月「かくれキリシタン・だんじく様」Hiding Christian・Danjiku sama
「かくれキリシタン」 Hiding Christian
史跡・だんじく様 平戸市生月町指定
Historic site・Danjiku sama Hirado city Ikitsuki town assignment
今から363年前のこと 363 years ago
キリスト教が禁制された中で The Christianity prohibited in Japan
ここ生月(いきつき)島でも Even Ikitsuki island here
かくれキリシタンとなって It becomes hiding Kirishitan (Christian)
多くの人が信仰を守っていた A many people were keeping one's faith.
平戸藩の取り締まりに追われた It was chased by the regulator of Hirado Clan
弥市兵衛と Yaichibe,
妻マリアと He's wife Maria
その子のジュリアンは and the child's Julien
断崖を下りダンジクの茂みに隠れた down for the Cliff, bush hide oneself.
ところが however,
ジュリアンが磯に遊びに出たところを Going out to play of Julien for the beach
海上からの取り締まりの船に To the ship regulative at sea
見つかってしまった It was detected.
親子3人ともども With three parents and children
殺され殉教した killed it died a martyr.
1645年1月16日のことであった It was January 16, 1645.
2008年1月17日撮影 Shooting a picture on January 17, 2008.
オラショの島・生月にて In the Ikitsuki island of Oratio (pray).
Music : 「くじら 2000」岩田 拓靖 Whale 2K Hiroyasu IWATA
しまに息づく かくれキリシタンの歴史
「島の館」は「平戸オランダ商館」から車で20分です。
(A Moveable Feast さんのブログから転載)
「だんじく様」は、殉教した、ジゴクの弥市兵衛と妻のマリヤ、その子のジュアンを祀る祠で、現在、船原家が祀っている。
ジゴクは地獄ではなくて、洗礼名のディエゴ(Diego)の転訛と云われている。
船原一族には、「松浦船原弥六 諧」(1336)、「船原与市兵衛」(1563)というような名の人物もあるので、「弥市兵衛」との関係が気に掛かる。
ダンジク様のお歌
んー参ろうやな参ろうやな
パライゾの寺にぞ参ろうやなあーあ
パライゾの寺とわ申するやなあーあ
広いな寺とわ申するやあーあ
広いなせばいは我が胸にあるぞやなあーあ
んー柴田山 柴田山 今わな涙の先なるやなあー
先わな助かる道であるぞやなあーあー
「川内峠・平戸島の教会」Vstrom650XTで行く九州・長崎旅#2
Vstrom650XTで行く九州・長崎旅#2「川内峠・平戸島の教会」編
田平教会から平戸大橋を渡り平戸島へ。南蛮文化を感じる平戸市内と教会群を巡ります。
九州・山口内で「鉄馬さんに行って欲しいツーリングスポット」のリクエストを受け付けておりま~す。
是非ここが見てみたいなぁ~とか、九州ツーリングの参考にしたい方などへ可能な限りお応えしたいと思っておりますので、
リクエストお待ちしておりま~す。
SUZUKI(バイク)
ラフ&ロードスポーツ
RRブログ
鉄馬写真家HP
鉄馬写真家FB
鉄馬写真家twitter
鉄馬写真家インスタグラム
「美の国」( 桜・城・雨) Beautiful Country
「美の国」( 桜・城・雨) Beautiful Country (Cherry blossoms : the Castle : a spring rain)
撮影:平戸城 亀岡神社 2008年4月8日
Take a shooting VIdeo in the Hirado Castle and Kameoka shrine, april 8, 2008.
Shimabara Rebellion | Wikipedia audio article
This is an audio version of the Wikipedia Article:
Shimabara Rebellion
Listening is a more natural way of learning, when compared to reading. Written language only began at around 3200 BC, but spoken language has existed long ago.
Learning by listening is a great way to:
- increases imagination and understanding
- improves your listening skills
- improves your own spoken accent
- learn while on the move
- reduce eye strain
Now learn the vast amount of general knowledge available on Wikipedia through audio (audio article). You could even learn subconsciously by playing the audio while you are sleeping! If you are planning to listen a lot, you could try using a bone conduction headphone, or a standard speaker instead of an earphone.
You can find other Wikipedia audio articles too at:
You can upload your own Wikipedia articles through:
The only true wisdom is in knowing you know nothing.
- Socrates
SUMMARY
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The Shimabara Rebellion (島原の乱, Shimabara no ran) was an uprising in what is now Nagasaki Prefecture in southwestern Japan lasting from December 17, 1637, to April 15, 1638, during the Edo period. It largely involved peasants, most of them Catholics.
It was one of only a handful of instances of serious unrest during the relatively peaceful period of the Tokugawa shogunate's rule. In the wake of the Matsukura clan's construction of a new castle at Shimabara, taxes were drastically raised, which provoked anger from local peasants and rōnin (samurai without masters). Religious persecution of the local Catholics exacerbated the discontent, which turned into open revolt in 1637. The Tokugawa Shogunate sent a force of over 125,000 troops to suppress the rebels and, after a lengthy siege against the rebels at Hara Castle, defeated them.
In the wake of the rebellion, the Catholic rebel leader Amakusa Shirō was beheaded and the prohibition of Christianity was strictly enforced. Japan's national seclusion policy was tightened and official persecution of Christianity continued until the 1850s. Following the successful suppression of the rebellion, the daimyō of Shimabara, Matsukura Katsuie, was beheaded for misruling, becoming the only daimyō to be beheaded during the Edo period.
長崎・平戸 世界遺産候補「中江ノ島」見学 「漁船を使用した中江ノ島クルーズ」実証実験の報道公開【4】
長崎・平戸 世界遺産候補「中江ノ島」見学 「漁船を使用した中江ノ島クルーズ」実証実験の報道公開【4】
中江ノ島は平戸島北西岸の沖合2キロに位置する長さ400m、幅50mの無人島です。
この島では禁教時代初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録があり、現在の生月のかくれキリシタンにとって聖水を採取する“お水取り”の重要な聖地として「サンジュワン様」などと呼ばれています。
“お水取り”はかつては平戸の西海岸の信者も行っていた記録があり、禁教時代には生月・平戸における共通の聖地であったとされています。
次期世界遺産候補「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の構成資産「平戸島の聖地と集落」を担う重要な資産となっています。(長崎県資料より抜粋)